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2010.11.29 戦跡ツアー1
日曜日の戦跡ツアーについて、詳しく書こうと思う。

小笠原諸島は、太平洋戦争において南方の重要地点であった。

島のひとつ、硫黄島は南方防衛における飛行場として重要な場所であった。

硫黄島は、平坦な面が多い島(ほとんどまっ平ら)であり、飛行場建設がしやすく、しかも、日本本土から飛行航続可能な距離にある。

硫黄島が陥落することは、本土が直接空爆されることを意味し、日本は死守しようと、アメリカは何とかして陥落させようと両国ともに大規模な戦力を費やした。
結果、アメリカが当初予想していた5日間程度で陥落する予想は大きく外れ、30日以上におよぶ激しい戦闘が行われた。
最新大型兵器を大量に送ったアメリカと、塹壕を張り巡らし、玉砕で迎え撃った日本軍の戦いは
結果アメリカ兵7千人、日本兵2万人にも及ぶ戦死者が出たのである。

さまざまな諸説があるが、徹底的に日本の輸送船は潜水艦によって沈没され、物資が乏しかった。肉弾戦をするしかなくなり、日本軍は大きな犠牲が出た。

このことは、多くの人が知っている歴史的事実である。
しかし、そのほかの小笠原諸島の過去については有名ではない。


さて、父島である。
父島は恵まれた湾があり大型の戦艦も停泊することができ、父島と本土の電波を受信するのに適した距離であったため、南方から大本営へ、または大本営から南方への情報通信の中継地点であった。
真珠湾攻撃の時の「ニイタカヤマノボレ」も父島の通信基地を中継したといわれている。

日本軍は、南方における空の要「硫黄島」海と通信の要「父島」を死守することに全力を注いだ。


日本軍は、父島にも2万人近くもの兵隊を送り、攻撃に備えていた。

この事実を知る人は少ない。

なぜか?

犠牲者は日本海軍陸軍あわせて4千人と言われている。
硫黄島の2万人に比べれば少ない。
このことが知名度を低くしているのかもしれない。

しかし、自分の勝手な推測では単にその理由ではないと思う。



私が勝手に思う、父島母島の戦闘が有名でない理由は・・・

「終戦まで陥落しなかった」からではないかと思う。



陥落しなかった理由はいくつかあるらしい。

父島は港を急斜面の山が囲っている。

硫黄島が陥落したことを受け、日本軍は山をくりぬき、大規模な塹壕、防空壕、機銃大砲も山の中に入れてしまい、完全な要塞化をした。
防衛力は硫黄島以上とも言う人もいる。
アメリカ軍が上陸しようものなら、アメリカ軍にも硫黄島を上回る被害が予想された。
そのため、アメリカは大規模な攻撃をしなかった。
という理由。

戦争の中心はすでに飛行機であり、すでに制空権を握ったアメリカは無理して港を取る必要がなかった。
という理由。

通信基地があっても、すでに南方の諸島のほとんどは陥落しており、通信基地の存在がアメリカに影響することも少なかったのではないか、という理由。

などがあるらしい。


父島は、実際にはかなりの攻撃を受けつつも、飛び越えて東京大空襲が起こっていたのである。

終戦後は1万人を越える兵士が本土に帰還することができた。


一万人を超える人たちが戻ってこられたことは喜ばしいことである。
しかし、4千人もの人たちの命が失われたことを知らなくていいのだろうか?

そして、自分は父島の戦跡ツアーに参加することにした。

続きはまたいつか・・・



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